「……ありがと」
ようやく落ち着いて顔を上げて詰まってた鼻を目立たないように――無理だったけど――啜って、私はぎこちなくお礼を言った。
私の定義した「ちょっとだけ」は多分世間の尺度と比べるとだいぶ規格外だったように思う。それでも、アポロは黙ってそのままでいてくれた。
背中のシャツには額しか押し付けなかった。ちょっとだけ皺ができちゃったけど、涙を吸ったとかそういうのはない。
そこまで全部を預けられるほど、私はこいつを信用してなかったから。
ただそれは、預けたくないってわけじゃない。預けられるものならそうしても良かった、けれど。
確かに、私の中にはアポロが居るのかもしれない。
お兄様がいなくなって縋りついたのはアポロだった。こうしてアポロが来てくれて、側に居てくれて、嬉しくなかったと言ったら嘘になる。
でも、アポロの中にはどうだろう。そこに私は居ないんじゃないだろうか。私がアポロに頼りすぎることは、迷惑なんじゃないのかって、そう思う――そう、迷惑なんて思われたくない。だから、信用はしない。
「お前、泣きすぎ」
自分の背中を確認しながら、アポロが私の方を向いた。ていうか、何でそんな執拗に確認してるのよ。鼻水なんか拭ってないわよ全く。
「チビ子たちだってこんな泣かなかったぞ」
いつか見たアポロの記憶。小さな子供たちと、バロンと共に毎日を楽しく可笑しく時に厳しく、サバイバルに過ごしていたとき。
私が見たのはほんの一部の断片的なものだった。その中で、あの小さな子たちが泣いているシーンはほとんど無かった気がする。
「悪かったわね、泣き虫で」
「別に、悪いとは言ってねえだろ」
アポロの口調は本当にいつも通りで、ぶっきらぼうに、ちょっと尖った風に呟いた。それが何だか嬉しくて、私はくすりと笑う。
するとアポロはしっかりそれを見咎めて何笑ってんだよ気色悪ぃなどとぼやいてくれやがったので、にこにこしたまま頭を叩いてやった。大げさに痛がっている様を笑みを五割増にして見守る。
――そうして、ゆるやかな沈黙が落ちる。
とりあえずするべきことは決まっていた。明日来るかもしれない襲撃に備えて、しっかり休むこと。泣き疲れた感じもあって、今なら何とか眠れそうだった。
「ねえ、アポロ」
「あんだよ」
「あんた、部屋にベッドあるのに、ときどき外で寝てるって聞いたけど、本当?」
以前ピエールだったかがそんなことを言っていたのだ。
夜遊びから帰ってきたらアポロのベッドだけもぬけのからで、まさかあの野生児がそんな真似をとショックを受けつつ翌朝問い詰めてみたら実は森の中で寝ていただけだったとか、そんな話を。
「ああ、そうだけど」
「そっか」
私はさっさと相槌を打って話を切り上げた。アポロがそうする理由が、なんとなくわかってしまったから。
バロンたちと過ごしていた頃は野宿が当然だった。
だからきっと、温かな記憶を思い出しながら、いつか絶対に助けるからなと己に言い聞かせて――月の下で、眠りについていたんだろうって。
「……アポロ」
「今度は何だよ」
「お願いがあるの」
お願い?と復唱したアポロと目を合わせる。知らぬ間に心臓がどきどきと早まっていた。
「今夜だけでいいから、その……一緒に居て、欲しいの。ベッド半分貸すから」
語尾を無駄に早口にしながら、ばふ、とシーツを叩く。
実のところこれは、本当にその場の思い付きだった。気が付いたら言い出していた、そう言ってもいい。
(だって……)
自分が一人になるのが怖いのも、確かにあった。
でも何よりも――これまでアポロはどんな思いで、森の中で何度も夜を明かしたんだろうって思ったら。いてもたってもいられなかった。
押し付けがましいエゴなんだって、わかってる。わかってたけど、ダメだった。
苦しくて。
一人になるのがどんなに苦しいことか、私は知ってしまったから。
「……」
アポロは何言い出すんだこいつ、みたいな目でぽかんと私を見ている。自分でもトチ狂ってるなって思うわよ。
(思うけどでも……苦しそうなあんたを見たくないだけ。それだけよ!)
「怖いのか?」
ぎくり、とする。まさかいきなり核心をつかれるとは思っていなかったのだ。
(……あれ?)
どこかで同じ事を聞かれた気がする――ああそうか、ピエールだ。
アポロに初めて出会った日。
一万二千年前の最愛の人の再会するのが怖いのかと、そう聞かれた。そのとき答えは「わからない」だった。
でも今ならわかる。
だって――まだ、こいつが太陽の翼の生まれ変わりだっていう確証はないのだ――
「そう、かも。……うん、怖い」
お兄様がいなくなって、私一人になってしまったことが。
今こうして側に居てくれるアポロを太陽の翼だと信じて、実は間違いだったと証明されることが。
そうして、一万二千年前のように、一人で置いてゆかれることが。
「私を……一人に、しないで」
うわ言のように本音を呟いて、それで我に返る。でも一度言ったことを取り消せるわけもなく、柄にもないことを言ってしまった自覚もあって、あまりの気まずさに私は俯いた。
だから――アポロが面食らいつつも、ふっと笑みを浮かべたことを、私が知ることはかったのだ。
「別にいいぜ」
「ええっ?!」
「何だよ。嫌なのかよ、自分で言い出しといて」
「ち、違うけどっ……」
「じゃあもう寝ようぜ。早く休めって言われたし」
ふわああ、と大きなあくびをしながら、アポロが言った。状況に置いていかれそうな自分を必死で引き戻して、そうねと平静を装って返事をする。
「あ、それ俺いらね」
差し出した枕をすげなく断ると、アポロはごろんと横になった。と思ったら、急に目を見開いてがばりと半身を起こす。
「な、何?」
「お前のこれ……ずいぶん柔らかいな。俺のと全然違う」
何なんだこれ差別じゃねえのかと言いながら、アポロはベッドを叩いたり押したりして、感触を確かめている。
「そんなわけないでしょ。みんな同じものを支給されてるわよ」
確かに私とお兄様は個室をもらってるけど、ベッドまで特別なものを取り寄せられるほど、DEAVAや私たち兄妹に予算的余裕はない。
「私のはちゃんと干してあるだけ」
「……ほす?」
「布団を、お日様の――太陽の光にあてて、乾かすの」
「何で。……お前まさか、濡らすようなことしてんのか?」
「んなわけないでしょ?! 湿気を飛ばしてるのよ湿気を!」
「しっけ。あー、ムシムシするあれか?」
「そ。私たちは寝てるうちにたくさん汗をかいてるものなの。それを吸って、布団が重くなるの」
私は親切にも、この大馬鹿アポロにもわかりやすく、噛み砕いて説明してあげた。にも関わらず、
「ふーん。よくわかんねえ」
そんな一言で一蹴される始末。
「あっそ……」
奇妙な疲れを感じて肩を落とす。まあ、元々理解してくれるなんて期待はしてなかったけど。
「でも俺、お前がそんなことしてんの見たことないぞ」
ぎっくう。うわ何でこいつこういう時だけ妙に鋭いのよ!
脱力したところへの不意打ちだったせいで、私は言わなくてもいいことを口走ってしまった。
「そ、それはその、つぐみとか麗花がついでだからって……」
「ははーん。やっぱりな。お姫様にはンなこと無理だよなー」
「なっ……わ、私だってこれぐらいできるわよ! ただ麗花がいつも――」
うっわ、指で耳掃除とかしだしたわよこいつ! むかつく……!!
だから思わず、
「アポロ!!」
怒りの丈を声に乗せると、
「お、調子出てきたな」
――なんて、にかって笑われて。
(な、っ……!)
これこそ真の不意打ち。
かっと頬が熱くなる。ううん頬だけじゃない、顔全体。
というか、全身がどくどくと脈打って勝手にどきどきいってて……何これ何なのわけわかんない、何普通にドキドキとかしてるの私は!
「ほんじゃ、おやふひ……」
地上に打ち上げられた魚みたいに口をぱくぱくさせる私を尻目に、こいつにしては礼儀正しく挨拶なんかして――それも欠伸交じりなのがよけいにこの大馬鹿らしいっていうか――アポロは素早くベッドに身を倒していた。
「え、ちょっ」
向けられた背中へ、やり場のない気持ちを――手を伸ばしかけたけど、即行で聞こえてきた寝息に私はそれを引っ込めざるをえなかった。
(……んもう)
心にぐるぐるとわだかまる心地。そこへ名残惜しさに似た何かが混ざりこんで、少しだけ落ち着かない。
でも、寝なくちゃ。
アポロがしている行動は、誰よりも何よりも正しいことだ。明日に――起こりうる全ての事象に備えて、今は眠るべし。
「おやすみ、アポロ」
私は小声で告げると、点けていた明かりを落とした。
急に暗くなった部屋に、一瞬だけ物寂しさを感じる。
けれどすぐ側に温かな気配があった。そう、まるで――布団をふかふかにしてくれる、お日様のような。
だから私は安心して、目を閉じることができたのだ。
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