(……なん、だ、これ)
 自分がしていることをおぼろげに理解しながら、けれど止めようとする意思が働かない。
 唇から伝わる過剰な柔らかさだけが脳髄を支配して、動けない。そこから離れることができない。
 そのうち、相手の体からくたりと力が抜けていくのを感じて――様子をうかがおうと、ようやく呪縛から解放された。
「はぁ……っ」
 目を開けると、小刻みに呼吸を繰り返すシルヴィアが居た。目元にはまだ涙がたまっていたが泣くこと自体は止めたらしい。ぼんやり自分を見つめたまま何も喋らない。
 とりあえず手を伸ばした。親指の腹で眦を拭い取って、すぐに引き戻す。指先についた水滴を見てどんな味がするんだろうと何となく思って舐めてみたらやっぱり塩気があった。涙ってのは誰のでもしょっぱいのか。へー。
「なに……してるのよ」
 非難めいた囁きに顔を上げれば、少し怒ったような顔でシルヴィアが自分を見つめている。
 さっきよりは意識がはっきりしているように感じて、少しほっとした。そうそう。こいつは俺のすることに難癖つけてこないと、それっぽくねえ。
「何って、どんな味すんのかと思って」
「ばっかじゃないの」
 反射的にそう言われたようだった。
 その証拠に、言い終えた途端シルヴィアは我に返ったみたいに目を丸くして、口元を指先で隠すような仕草をした。
 ただそれはほんの数秒のことで、すぐにシルヴィアは目つきをきっと鋭くした――いつもみたいに。
「そうじゃなくって! いっ、今あんた……っ」
「知るかよ」
 後を続けられずぱくぱくと口だけを動かす様に何故か居た堪れなくなって、遮るように吐き捨てる。ついでにそっぽを向いた。
「俺だってわかんねえ」
「わかんねえって……」
「だいたい、変なことしてきたのお前の方からじゃねえか」
「うっ」
 そうだ。こいつがいつもと全然違う風だったから、何か気が付いたら勝手に体が動いてたんだ。何でだとか言われてもこっちが聞きたい。
「お前が変な顔すっからだ」
「へ、変な顔って、何よその言い草は!」
「他にどう言えばいいかわかんねえんだよ! とにかくいつものお前じゃないみたいだったから、変!」
 勢いで思っていたことをそのまま言葉にしたら、シルヴィアの顔がくしゃっと歪んだ。あ。やべ。
「変って……ひどい」
 何だよこいつ何でこんな打たれ弱くなってんだよしっかりしろよこっちが調子狂うじゃねえか。
「おい、また泣くことないだろ!」
「泣いてなんかないわよっ!」
 とか言いながら、シルヴィアの目にはまた生暖かい塩水が浮かんでいる。あー何なんだこいつは。
 シリウスがいなくなって、とても不安定になっているだろうから、支えてあげて――って、ソフィアは言ってた。
 つーか何で俺なんだよピエールとかでいいじゃねえか、そう反論しようとして、ピエールも医務室に担ぎこまれてたのを思い出した。
 自分もあちこち怪我はしたけれど、動けないわけじゃなかった。前線で戦っていた自分より、――堕天翅どもに滅茶苦茶にされた――基地に居た奴らの方が、酷い怪我を負ったのだ。
(あなたなら、今のシルヴィアの気持ちを、わかってもらえると思うから……だっけ)
 大切な存在を失ったときの、気持ち――あまり思い出したくない。でも、目の前のシルヴィアを見れば嫌でも想起する。
 苦しかった。息をしてるのも辛かった。生きてる意味がわからなくなった。
 何で自分だけがここに居るんだって、何もできないのに何で残ってるんだって、ただそれだけの事実が、あまりにも苛ついて悔しくて、自分をこれでもかと打ちのめした。
(そうだ、ここに来たのは――)
 ここに居て、アクエリオンに乗れれば、バロンを助けられると思ったから。
 手酷い現実をぶち壊すことができると、そう信じたから。
 ――結果的に、壊すどころか最悪の事態になってしまった、けれど。
「……」
 俯いて肩を震わせているシルヴィアを見る。
(俺もあんな感じだったってのか? 何か違う気がすっけど)
 けれど――言葉などで表現はできないが、何となく、わかる。共感するとでも言うのか。
 多分、俺たちは同じような気持ちを、共有することができる。知りたくもなかった――辛くて苦しくてどうしようもない、あの心地を。
「シルヴィア」
 気が付いたら名前を呼んでいた。
 伝えるべき言葉は一つもなかった。だがそれでも、このままにしておくと、こっちまで胸が苦しくなってしょうがない。
 返事はなかった。
「悪かったよ」
 くっそ、何で俺が謝らないといけねえんだ。
「……んとに、あんたってサイテー……」
 今度は、震え気味のか細い声が反応した。
 言われている内容はともかく、それが憎まれ口であったことにものすごくほっとする。
「うるせえ」
「ばか」
 そうして顔を上げたシルヴィアは、今にも泣き出しそうであったけれど。
 瞳にはちゃんと、普段とさほど変わりの無い、気の強そうな何かが感じられて。
「アポロ」
「なんだよ」
「ありがと」
「べ、……別に」
 言ってすぐさま顔を逸らしたのは、何かまたこいつの顔が変に見えた気がしたからだ。
 笑えてるわけじゃない。けれど、辛そうな感じでもない。なんつーか……その、よくわかんねえけど、そのまんまにしとけねえっつーか! だからずっと見てたらヤバい感じの!
 だんだん自分も混乱してきた。何がしたいんだ俺は。
(……とにかく、こいつ少しは元気になったみたいだし)
 ひとまずこれでいいってことだよな。うん。
 実体不明の発生源不明で意味不明な焦燥感にかきたてられながら、俺は次の行動――寝ることだ――に移ろうとして、
「……あ?」
 引っ張られるというか、引っ掛かったような感覚。何なんだと目をやると、シルヴィアが俺のシャツを掴んでやがった。
「なんだよ」
「あの、あのさ、アポロ」
「ああ」
「アポロは、……もう、行かないよね? また――……あ、じゃなくてその、どこかに行っちゃったり、しないわよ、ね……?」
 いきなり何言い出すんだこいつ。つーか、よく見たらこいつの手震えてるし。
 言われた意味はイマイチ理解できなかったが、きっと答えないと離しちゃくれないんだろう。
「行かねえよ。居ろって言われたんだし」
 だから、解る範囲で答えた。シルヴィアは一応それで納得してくれたようで、ややあってシャツの引っ掛かりが消える。
「何て顔してんだよ」
「え?」
 そのまま気にせず寝てしまえばよかったんだろう。ただ何か我慢ならなくて、気が付いたときには指摘していた。
 シルヴィアの反応から、うわ絶対こいつ今自分がどんな顔してるかわかってねえ、そう確信する。余計に苛立った――苛々というよりは奇妙な理不尽さを感じて、寝ようとかいう意思はどこかにすっ飛んだ。
「その顔だその顔! 何かその……そうだ、自分は世界に一人だけ、みたいなそれ!」
「え、え??」
 くっそ、何困惑してんだこいつ。さっきからバカバカ言われたけどお前の方がよっぽどバカだ。
「そりゃあいつは今ここにいないけど、それで何でお前が一人なんだよ。麗花だってピエールだってジュンだってつぐみだって、皆ここに居るだろうが!」
 シリウスの名前は出せなかった。こんな顔見せられて言えるわけがねえ、って、何で俺がこんな色々気を遣わないといけねえんだ。あー本当わけわかんねえ!
 わけのわからないまま、口だけが勝手に言葉を吐き出していく。多分本音ってやつだ。何故なら今頭の中が真っ白だからだ。正体不明の感情だけが俺を突き動かしている。
「俺はここに居るって約束した。それでも一人だとか思ってんのか? じゃあ俺は何のために居るんだ! お前を一人にしておけないから居るんじゃねえか!」
 シルヴィアは――
「……ぁ」
 呆然と、アポロ、と口だけを動かした。
 反論なんざ聞きたくもねえ。そう思った瞬間、やはり体が勝手に動く。
 もう喋るなとばかりに、立て膝の体勢で、座り込んだシルヴィアの顔を自分の胸の中に抱きこんだ。強く強く戒めるように、両腕に力を込める。
 誰への戒めなのかは、自分でも理解していなかったが。

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