そっと、バルコニーの手すりに指を這わす。
 これといった意匠のない、素朴なつくりをしたそこを何度か行き来させて、ようやく飽きた。飽きたというよりは、無意味さに根負けしたというか。
 私の夜はたいていこんな形で始まる。
 もちろん私に徘徊癖があるわけではなく、ただの不眠症対策だ。
 眠れないところを強引に眠ろうすると焦って余計眠れなくなる。だからベッドで寝返りをうち続けるよりは、こうして気分転換を装った散歩と洒落込むことにしている、それだけだ。
 今日はたまたまこのバルコニーに来てみた。眺望できる夜闇に融ける広々とした森は、どこか恐ろしい気もしたけれど、落ち着いた感じが好ましく思えて、しばらく目が離せなかった。
 私はその日の気分で色々な所へ足を運んでいる。共通しているのは、ここだと決めた場所で、全く意味のない行動をすること。
 時間が早く過ぎればいいのにと考えながら、けれど時間は誰に対しても等しく一定で、その流れが遅いと感じている私はつまり、時を持て余しているということなのだろう。
 そんな、当たり前のわかりきったことを再認してはじめて、私は永い夜と立ち向かう気になれるのだった。
「……ふう」
 今日の永い夜の始まりを受けて、とりあえず私は手すりに両肘を置き、頬杖をついた。呼気を吐き出してみると、自然ため息のようになってしまう。悩んでいることなどないのだけれど。
 こうして夜眠れないのは今に始まったことではないし、堕天翅たちの攻撃も今は大人しい。
 嵐の前触れだと予想したジェローム副指令が、このようなときこそ気を抜かず全力で訓練を遂げろなどと喚き散らすのが少々暑苦しい程度で。
(……)
 つと、宿舎の裏手を気にしている自分に気がついた。
 軽く――眠気の欠片も湧かない、けれどぼうっとした鈍い痛みを伴った――頭を振って、雑念を払う。
(別に気にすることなんかないじゃないの)
 先ほど、弟とテレパシーで話したことが思い返される。

<< 姉さん、あれだけはやめといた方がいいよ >>
<< え? >>
<< ピエールだよ。……同室の者として言わせてもらうと、絶対にやめた方がいい >>

 そう切り出してきた弟は、あまり言いたくないけどっていうか考えたくもないんだけどと言い訳がましく前置きして、彼の素行のなんたるかをテレパシーで流してきたのだ。
 その膨大な量といったら、途中でもうわかったわと私が折れるほど。
 よほど腹に据えかねていたものがあるのだろう、と推測する。
 あの子も私と同じで真面目な性格であるし、憤りを感じずにはいられないその気持ちはわからないでもないのだけれど――
(これが男と女の違いってやつなのかしら)
 そんな風に思いながら、わかったわとだけ答えて、半ば強引に接続を切った。

 弟の口ぶりからして、今日は――弟の言い分を信じるなら、今日も、が正しいだろうか――彼は部屋を空けているようだった。
 ということは、よほどのヘマでもやらかさない限り、彼が裏手を突っ切ることはない。……少なくとも、明け方くらいまでは。
 今度こそため息になった吐息に、私は自嘲気味に表情を歪めた。
 つい先日の、奇妙なコスプレ訓練。
 今となっては夢じゃなかったのかと思うほどに――あのときの私はどうかしていた。
 というよりは多分、訓練に真面目に取り組もうとした体が、あの場の異様な雰囲気に呑まれたとでもいうか……とにかく、気が付いた時には、ずっと隠していた気持ちを皆の前に曝け出していたわけで。
(道化もいいところね)
 シルヴィアの本質を突いてみたり、確かに道化じみたこともしていたなと記憶がよみがえる。普段の私なら考えられないような、いわゆる「悪ノリ」というやつをしていたのだ。
 そんな私の道化に、彼は嬉しそうに追従してくれて。
(……私も、嬉しかった)
 いつもだったら冗談半分でしか相手にしてもらえなかった私に、彼は本気で接してくれた――そんな気がしたのだ。気がしただけで、錯覚という可能性の方が存分に高いだろうが。
(でも、嬉しかったのよ)
 真面目一辺倒、その自分の性格に面白みがないな、という自覚はある。けれどそれは今更変えられるものでもないし、変えるつもりもなかった。
 ただ、周囲の同じ年頃の女子を見るにつけて、取り残されたような感覚はあった。
 私もあの子たちみたいに、恋だの何だのと話してみたいなと、思ったことは数知れず。すぐにその思考を振り払ったのも、同じ数だけ。
 だから、女好きの悪評高い彼にちょっかいを出されたときは、情けなくそして不覚にも、その、ときめいてしまったりしてしまった、わけで。
(本気じゃないことぐらいわかってたけど、でも)
 そのとき、新しい世界が見えた気が、したのだ。
 そこは自分が足を踏み入れてはいけない――誰が決めたわけでもないだろうけど、踏み入れれば拒絶されそうに思えたのだ――世界。その禁忌の扉がいともたやすくぱっくりと、口を開けた瞬間。
 足を踏み入れかけて、目の前でそれが閉じた。
 途端引き戻された現実では、彼がたまたま通りかかった別な女子に駆け寄って、猫撫で声をあげていた。

 ただからかわれただけなのだと、そのときようやく気が付いて。
 それでも――胸がときめくというこの心地が、忘れられなくて。

(……ほんとう、馬鹿ね、私)
 私は両の頬を支えていた手で、顔全体を覆った。
 吹き付ける風は手の甲へ当たり、私の髪の毛を揺らして後方へ飛んでいく。
 訓練のときの彼は、ただ自分に合わせてくれていたにすぎない。
 彼も私と同じ思いだとか、そういう理由で笑いかけてくれたのではないのだ。
 そうやって頭ではちゃんとわかっているのに、心のどこかが期待を止めてくれない。
(今だって、そこを通りかからないかななんて――)
 指の隙間から見える、バルコニーの下を確認する。当然ながら誰もいないし気配の一つも、
「こーんな夜更けに、たそがれる美少女が一人」
 何で後ろに――驚きを隠せないまま、反射的に振り向いて。
「絵にはなるけど、一人きりは危ないぜ?」
 噂をすれば何とやら、とは言うけれど。
 こんなところに居るはずがない――この宿舎にはいるかもしれない、女子と一緒に――そう踏んでいた相手が、私の目の前でウィンクをしてみせた。
「ピ、ピエール」
 よお、と愛想よく相づちを返される。
「ど……どうしたの、こんな時間に」
「おいおいそりゃこっちのセリフ」
 と、そこでピエールはすっと表情を変えた。やや細められた瞳に、鋭さが宿る。
「眠れないのか?」
「……ええ、まあ。でもいつものことだから」
 私は表情を見せる気になれず、なるべく自然な動作で空を見上げた。月と星が平和そうに輝いている。
 ピエールは当然のように私の横に並んで、同じように空を見る。
「なあ、クロエ」
「な、何?」
「時間あるなら、ちょっと俺に付き合わない?」

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