「だって、殿方の部屋に行ってベッドに座ったらそれはもうOKの合図だって」
「……いや、あの、どこでそんなことを」
「学校に通っていたとき。お友達からそう聞いたの」
(ええと……)
 背中を伝う汗がやけに冷たく感じる。
 思考が停止しかけた頭で聞き取った話をまとめると、つまり、彼の主は彼を誘っていた、ということらしかった。
 確かに、そう考えればなんとなく辻褄は合うというか、先ほどまでの彼女の言動については納得がいった。
 いつまで経っても手を出してこない相手に対して不安になった挙句、何やら不穏な想像へと辿り着いたのだろう、ということはさすがにスザクにも察することができた。
(でも、……だからって)
 間違いなくスザクはユフィに愛情に近い感情を持っていたし、そのような願望がないわけではなかった。
 しかし、主からの許可が出たからでは遠慮なく、とその体を引き寄せていいのかといえば、それは全くの別問題だ。
 彼はあくまでも第三皇女の騎士であり、彼に許された権限は彼女を守るために彼女に随伴しその御身を守護すること。それ以上でもそれ以下でもない。
 何より、彼女はブリタニアの次期皇帝になる権利を有した人間なのだ。
 いつかは、彼女の身分に相当する人物と結婚し、子孫を残すことになる。
 そしてスザクはおそらく、一生かかってもその身分に到達することはないのだ。
 何故なら彼は日本人だからだ。「名誉ブリタニア人」という地位は与えられてはいるものの、けれど彼は決してブリタニア人にはなれない。
 彼は何があろうとも一生、ブリタニアに支配された敗戦国の人間――イレヴンなのだ。
「……私のこと」
「え」
 俯いたままのユフィがぽつりと呟く。スザクは思考を打ち切ると顔を上げ、耳をそばだてた。彼女の声はひどくか細く、震えていた。
「はしたないとか思った?」
「そんなことない」
 即答し、一瞬だけ迷ってから、スザクは膝上で握られた白い手に自分のそれをかぶせた。
 のろのろと上がったユフィの顔を笑顔で覗き込む。
「正直に言うよ。嬉しかった」
「……ほんとう?」
 スザクは視線を合わせたまま、強く頷いてみせた。
「そういうこと考えてたの、僕だけじゃなかったんだって、ね」
 そうして意味ありげに笑ってみせると、途端にユフィの頬が赤く染まった。戸惑うように視線をさまよわせ、そしてもう一度、おずおずとスザクの瞳を見つめ直す。うん、とスザクは触れさせていた手に少しだけ力を込めた。
 少しだけそのまま時間を置いて、
「……でも、ユフィ」
 努力して手のひらから力を抜いていく。それに気付いたユフィの表情から笑みが消え、どうして、という責めるようなものになる。
「だめだよ」
 早く帰ることを否定したそのひとに、まさか自分が同じ内容の言葉を返すことになろうとは予想もしなかった。
「僕は君の騎士だけれど、……騎士は、君を守るためのものだ。君を守ること以外は、許されてない」
「スザク!」
「それに、……それに、ユフィ。前に話したよね」
「え……?」
 すっと、スザクはあたたかで滑らかなそこから、手を引いた。
「僕の手は、汚れているから。……この手で、君を汚したりしたくない」
 ほんの数年前に犯したばかりの大罪は、今も彼を苛んでいる。
 償うこと自体が許されず、事実だけがねじ曲がり、もう罪として認めてもらうことすら許されなくなった、彼の罪は。今もただじっとりと、彼の奥底に沈んでいる。消えることなくただ沈殿して、その存在だけを伝えてくる。
 それは静かに無言のまま、彼から幸せというものを遠ざけさせた。
 誰かを好きになること、それ以前に自分を好きになることもなく――ただ贖罪を求めて生を捨てていた彼へ、「好きになりなさい」と命令したのは他でもない彼の主だった。
 彼の世界を、その生き方を変えなさいと、彼女はそう言ったのだ。その代わりに、自分があなたを好きになりますと。変わってしまった世界で、あなたを一人にはしないと――そこには少なくとも、あなたを好きな私がいますと、そう確約してくれた。
 だからスザクは、開いた扉の先へ、一歩を踏み出すことができた。
 世界はとても美しく、温かいものだと知れた。それはまるで、自分を喚んでくれた、主そのもののようで。
(絶対に、この人だけは、汚すわけにはいかない)
 騎士になると誓い直したあの日、己にも誓ったのだ。
 広がる世界へ、彼女は進むべき道を持っていた。その道はとても長く険しい。彼女に危害を加えようとするもの全てから、彼女を汚そうとするもの全てから、自分は彼女を守り通そう。
 彼女だけは、何があろうとも、穢れなきままでいて欲しいと。
 スザクはそう願ったのだ。
 彼女だけは、何があろうとも、彼女を穢そうとするものから守ってみせると。
 スザクはそう決めていたのだ。
「スザク」
 ――それは、普段どおりの声だった。
 柔らかくて、温かい。心にじわじわと、奥底にまで染み込んでくる。
 だからスザクは油断した。拒否した側から、ひどくあっさりと懐に入り込まれた。
「もう忘れちゃったんですか?」
 そして彼女はいともあっさりと、当たり前のようにスザクの手を取ってしまう。
「私は、あなたのことが全部大好きだって」
 その手を包み込むようにして、
「そうやって私に気を遣いすぎるところも、……あなたが汚れていると言っている、この手も」
 頬擦りするように、彼女の頬とを触れさせた。
「あなたが自分を肯定しているところはもちろん、逆に否定するところも全部、私は大好きなの」
 そうして優しく閉じられていた瞳が開くと、それは鋭くスザクの瞳を射抜いた。
「スザク。あなたは私が大好きなものを否定するの?」



「……ありがとう、ユフィ」
 気を抜けば涙をこぼしてしまいそうだった。スザクはそれを必死に押し止めて、目の前の、ただただ優しすぎる主を見つめ返す。
 笑顔を作れているだろうか、と自問した。
 今から続ける言葉は、彼女の期待を裏切るものになるから――告げる瞬間まで気取られないよう、笑顔を向けていようと努力する。
「でも、僕は――っ!?」
 スザクは大きく目を見開いた。
 ついさっきまでユフィの頬に触れていたはずの己の手が、弾力性のある柔らかなものに押し付けられていたからだ。
「ゆ、ユフィ! だめだ、離すんだ!」
「平気です」
 ユフィはスザクの手を己の胸へと抱き込むようにして、がっちりと固めてしまう。
「どうして私がスザクに汚されることがあるんです? おかしいです」
「……ユフィ、本当に。離すんだ」
「嫌。スザクは私のことを好きなんですよね。……その、こういうことを、考えたりもしてくれたんですよね?」
「それは、……その、否定はしない、けど」
「ならいいじゃない!」
 ユフィは――いつものように、突然――感情を爆発させて、叫んだ。
「私はスザクになら、何されたって平気。それで私が汚れるっていうのなら、私は喜んで汚れますっ」
 急激に昂ぶった感情に声を震わせながら、ユフィは強引に笑みを作ってみせる。
「だってそれは、スザクと同じになるってことでしょう? 私はその方が嬉しい。もっとスザクのことを解れそうだもの」
「……ユフィ」
 スザクは自由な左手をそっと伸ばすと、そっとユフィの頬に触れさせた。ゆるく曲げた人差し指で、目元の水滴を払ってやる。
 くすぐったように首を竦めたユフィが両腕から力を抜く。手早く退かした右手を、スザクはそっとユフィの顎に添えた。
「……ほんとうに、いいの?」
「だめだったら、座らないで立っていたわ」
 瞼を落としたユフィに、スザクはゆっくりと顔を寄せた。

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