頭がぼうっとするのは息苦しさによるものだと思い当たって、アポロはそこから離れた。
 は、と目の前で熱い吐息が吹きかけられた。口の端から引いていた唾液がぷつんと途切れる。
 シルヴィアが時折咳き込みながら必死に呼吸を繰り返しているのを見て、自分が苦しいんだからこいつも苦しくて当たり前か、とそれこそ当然のことに気付く。アポロの手は勝手に、未だ涙のたまった目元へ伸びた。
「いつまでも泣いてんじゃねえ」
「これはっ……ち、違うわよ……」
 シルヴィアが気まずそうに目を伏せた。そこからぽろりと雫が落ちるのを見てしまっては、何が違うんだと問い返そうとしたアポロは口をつぐむしかない。
 もう泣かれるのはこりごりだ――そう思ったから、彼女の言う通りにしたというのに。半分ほどは単なる己自身の希望でもあったのだが、それに気付けるほどアポロは精神的に成熟していない。
 とりあえず涙はもう見たくない、アポロはそう思った。何故ならこの馬鹿力女にこれほど似合わないものもないからだ。
 全部拭ってしまおうと考えたところに、ふと、数刻前の感覚や記憶――柔らかいとか塩味とか――といった雑念が、ほんの一瞬だけ混ざり込む。気付いたときにはシルヴィアの目元へ唇を寄せて、おぼろげな感覚をリアルにしていた。
 確かに柔らかいし、しょっぱい。
 それを確認し、僅かな満足感と共に近づけた顔をあげると、シルヴィアが怯えたような怒っているような、困惑一色の表情でアポロを見つめ――否、睨みつけていた。
「何だよ」
「なにって……っ、べ、べつに、なんでもないわよっ」
 ばか、と小さく語尾に付け加えて、シルヴィアはつんと顔を逸らした。
 何に怒っているのかは知らないが、その声や態度にいつもの調子が見え隠れしていることに、アポロは更なる満足感を得た。
 すると今度は、己の探究心とかそういったものを満たしたくなってくる。
 つまり――頬とか唇とか、それ以外の箇所は、どうなっているのかということ。主に、柔らかさの面で。
(もっと触れって言ったよな。……ま、文句言われたら他のとこ触ればいいか)
 至極単純かつ明快な思考がアポロの脳裏を駆け巡った。
 食い物があるから食べる、強そうで気に食わない奴がいるからぶちのめそうとする。それらの行動指標と同レベルで、アポロは次の行動を決定した。
 先ず、アポロは組み敷いたシルヴィアの、彼の印象曰くの「平らっぽい」胸に触れてみることにする。
「やっ……!」
 アポロからすればそこは、二の腕――ここだって思いのほか柔らかかった――と同じなのだろうと予想していた。
 だからついぎゅうと握る勢いで触れてしまったのだが、大幅に裏切られた予想と、そしてシルヴィアの悲鳴じみた声に驚いてすぐに手を引いた。
 挙句――
「わりい。……つーか、何で柔らかいんだここ? つぐみとか麗花みたいに膨らんでないのに」
 などと、致命的な言まで飛び出してしまったわけで。
「っ、のぉ……っばかぁああああ!!」
 シルヴィアの拳をまともに顎で受け止めて、アポロはぐらりと傾いた。
 脳髄がぐらぐらと揺さぶられる。意識が霞むのに目の前がちかちかと煩く瞬いて、痛みよりも何よりも嘔吐感に襲われた。
 よろめいた体を咄嗟についた左腕でどうにか支えきったが、文句を叫ぼうにも回復が全く追いつかず、だいぶ間を空けてから訴える。
「……あに、すんだよお前はっ!」
「あんたが失礼にも程があること言うからでしょうがっ!!」
 待たされたせいかシルヴィアはだいぶ落ち着いて反論してきた。
 しかしアポロにとっては理不尽な振る舞いであることに変わりはなく、不思議に思ったから聞いただけじゃねえか口の中少し血の味すんぞ、と力なく言い返す。
 言い終えても世界はまだ少しばかりぐらついていて、アポロは毒づきながら額を押さえ、こみ上げる色々が収まるのを待つことにした。
 その間シルヴィアが、しかもこんなときに他の女の名前なんか出すしとかぶつぶつ言っていたのは、聞こえていたけれどさっぱり意味がわからなかったので、気にしない事にして。
「……わぁったよ。じゃあもうここは触んねえ」
「別に、っ……触るなとは言ってないじゃない……」
「はあ? じゃあ何で怒ってんだよ。殴られ損じゃねーか」
「あんたが言った内容に怒ったのよ! わ、わかりなさいよねそーゆーことくらい!」
 結局、理不尽さだけがますます募っただけだったが、アポロにもただ一つだけ理解できたことがあった。
「じゃ、触る」
 悲鳴にしか聞こえなかったのだが、とりあえず「シルヴィアは心底嫌がっていたというわけではない」、ということだ。
 むに。
 今度はあまり力を入れないようにして、改めて握ってみる。触ってみてわかったが、そこは完全なる平面などではなく、酷く緩やかな丘陵のようなものだった。だから、感覚としては「触れる」よりは「握る」に近い。そうしないと、柔らかさを確かめられない。
「おい、もしかして、痛いのか?」
 シルヴィアの、何かに耐えるようにぐっとすぼめられた表情に、アポロは心配そうに声をかけた。握った瞬間、びくりと震えられたのも引っ掛かる。
「ち、違う、けどっ……も、もっとやさしく扱ってよね」
 やさしく、などと言われてもピンと来ない。自分は十分に「やさしく」握っているつもりなのだが、じゃあどうしろというのだろう。アポロは珍しく頭を回転させてみる。当然ながらさっぱりわからない。
 仕方ないので「握る」ことを止めることにした。
 つまり手のひらではなく、指先で「触れる」――あるかないか程度の形に添って、指を滑らせていく。
「ひゃ、っあ……!」
 今度は突然高い声があがった。ぎくりとして動きを止め、アポロはシルヴィアの表情を窺った。
 また泣き出すのかと内心ビクつきながら、とりあえず致命的な事態には陥っていないと理解して、叫ぶ。
「今度は何だよ!」
「な……なんでも、ないわよっ」
「なら変な声出すなよな」
「私だってそんなつもりないわよっ! か、……勝手に出ちゃうんだから、しょうがないじゃない……」
 ならばもう少し悲鳴っぽくない声にしてくれればいいものを。部類としてあまり聞いたことのない声色なので、よけいに心臓に悪い、アポロは半ば呆れ気味に思った。
(……ん?)
 違う、と頭のどこかが否定する。聞いたことがあるのだろうか。そうだ。どこかで、シルヴィアのこんな感じの声を、聞いた。それも何度も。
「そうか、合体だ」
「はぁっ?!」
 アポロがぽむ、と手を打つと同時、シルヴィアからすっとんきょうな声があがる。
「な、何言い出すのよき……、急にっ」
「お前の変な声どっかで聞いたことあるなって思ったら、合体んときだ。ん? ……てことはお前、気持ちいいのか?」
「ばっ……!」
 反射的に、アポロは飛んできた拳を受け止めた。
 その威力が先ほどのものよりだいぶ鈍くなっているのは、彼女が疲れてきたのだろうか。それとも眠くなってきたのか――ちっともそうは見えない、アポロは睡魔案を却下する。
 ということは疲れているのだろうか――アポロは少しだけ力を入れると、握ったままの拳をシーツにゆるく押し付けておいた。疲れてるなら無理に動かなくったっていいのだから。
「だから何でいちいち怒るんだよお前は」
「あんたが変なことばっか言うからでしょっ?!」
 シルヴィアは顔を真っ赤にしてわめいたが、アポロは本当に、どこが変なのか、何も間違ったことを言った覚えがないと首を捻るばかりだった。
「そっか。俺だけじゃないのか。触ってて気持ちいいの」
「ッな……」
 今度こそシルヴィアは言葉を失った。というか固まった。
「ならいいや。お前だって気持ちいい方がいいだろ」
「な、ななな何言ってんのよ、あんたはっ!」
「変な声ばっかあげるから嫌なのかと思ってた。違うんなら」
 存分に触ってもそれはむしろいいことだと、アポロにはそう思えた。動揺してすっかり腰が引けているシルヴィアの胸に、堂々と手を伸ばしていく。
「っん……!」
 両手で掴むように触れる。あまり力を入れるのは良くないと判断して、指先だけをすぼめたり広げたりして、感触を確認していく。
 解ってはいたが、やはりそこは柔らかかった。
「はぁ、や……アポロ、やだそれ、ちょっ……くすぐっ、たいっ……ん!」
 途切れ途切れに言葉を搾り出しながら、シルヴィアが体をもぞもぞ捻る。「くすぐったい」という感覚が希薄なアポロにはピンと来ない。
 記憶の底にひっそり仕舞われていた、けれどいつでもすぐに取り出せる――十三年生きてきたアポロの全てともいえる、仲間達との思い出。その中に、チビ子たちがふざけてじゃれあいながらくすぐり合っているシーンがあった。
(そういや、くすぐったいってどんな感じだか聞いたっけ)
 何と答えられたのだったか。むにむにと指先を動かすことは止めずに、アポロは必死で記憶を手繰る。
(……そうだ、むずがゆいみたいな感じ、とか)
 言われたものの、よくわかんねえ、と結論付けてそのままにしておいた気がする。所詮自分には関係のない感覚であったのだし。
 わからなければ――試してみればいい。
「シルヴィア」
「んぅっ……な、に?」
「くすぐったいって、どんな感じなんだ?」
「ど……どんな感じって、くすぐったいものはくすぐったい、っし……」
「そういや、くすぐったいって言うわりには笑ってねえな」
「そこまで酷……っく、ないもの……ぁ、う」
 アポロはシルヴィアの瞳が奇妙に潤んでいることに気が付いた。泣き出すのかと一瞬勘違いしたほどに。
(呼吸が荒くなってるのもくすぐったいせいなのか?)
 そしてくすぐったいのは、自分が触れているせいなのだろう。けれど今のアポロには触れるのを止めるという考えが一つもない。
 ふと――服の上から触ってるから、服がこすれて「むずがゆい」のではないか、という仮説に思い当たった。そうか。そうかもしれない。
 さっそくアポロは、名残惜しさを感じつつもそこから手を放した。シルヴィアが不思議そうな目を向けてきて、次の瞬間それは大きく見開かれた。
「ちょっ……ばっ、アポロなにし、っあ!」
「あれ、ダメか」
「な……に、がっ……は、ぁ、やだばかっ……!」
 直に触れたそこはうっすら汗ばんでいるが、むにむにした弾力性が心地よい。
「お前くすぐったいって言うから、直に触った方がいいかと思って」
 よくなかったか?と心底不思議そうにたずねられて、シルヴィアは泣きたくなった。何というかこう、あらゆる意味で。
「いいわけなーい……っ!」
 服の下から手を入れられてもぞもぞやられているので、どんな感じになっているのかがシルヴィアからは見えない。当然アポロからもだ。
 必然的にアポロは文字通りの手探り状態になったし、シルヴィアに至っては実際に伝わる感覚からその手探り具合をトレースせざるを得ないという、誠におかしな状況下にあった。
 あまりのおかしさに思考が麻痺する――それはシルヴィアだけでなく、アポロにも同じことが言えた。
「あ、っや……んぅ、ねぇ、やめっ……てよぉっ」
「なんで。お前、気持ちいいんだろ?」
「ちが……っ、きもちよくなんかっ……なっ、い……!」
 シルヴィアの手はアポロの肩を掴んで押し返そうとしていたが、ろくな力が入っていなかった。
 熱い吐息が室内に響く。二人の耳朶を叩くそれはさらに、二人から常識的な何かを取り去っていく。
 やがて与えられ続ける刺激が止まって、シルヴィアはぼんやりした思考の中、自分に起きた変化を感じ取った。己の皮膚から篭った熱が逃げていく。ひやりとした空気に肌が撫でられているのだと理解したときには、別の大きな感覚に注意が全て持っていかれる。
「っひゃ……?! あ、アポロやっ、やだばか何考えてんのよやめなさっ、い、よぉ……!」
 いつの間にか顕にされていた胸に、アポロが取り付いていた。まるで赤子がするようにそこへ吸い付いて、離れようとしない。
 ぞろり。敏感になった胸の輪郭を舌で辿られて、シルヴィアは快感よりも先に気色の悪さを感じてしまう。
 シルヴィアには、そういう行為があることも、この先に起こりうることも、一応の知識はあった。それがどのような感覚をもたらすかということについても。
 だが所詮それは本などで読んだだけの、実感を一つとして伴わぬ情報でしかない。どんなに「気持ちがよい」ものだと示されたところで、真に理解するのは――そういうものだと納得するのは――難しいだろう。
 だから――シルヴィアは、理解しようにも先ず納得がいかないその感覚に翻弄されるしかない。
 理解できないもの、つまりわからないものは自然「恐怖」へと――快楽とは相反する位置にある感情へと繋がっていく。
 シルヴィアの背筋を言い様のない感覚が走る。電撃にも似た何か。おぞましさを感じたときの鳥肌にも似た、けれど確実に似て非なる対刺激反応。
 どうしたらいいのかわからない。混乱したシルヴィアには、刺激を与えてくる相手を剥がすこともままならない。
 理解不能の感覚が、全身から力を奪っていくからだ。
「や、っん……! ぁう、っは……あ、や、だやめぇっ……!」
 混乱は何もシルヴィアだけでなく、等しくアポロにも訪れている。
 何をしているのかを考えるのは既に放棄していて、とりあえず触れてみたかったという言い訳じみた回答だけが頭にあった。
 シルヴィアの悲鳴は耳を素通りして、その甲高さだけが耳障りに残っていた。うるせえなと思いながらけれど、つまり気持ちいいんだろうとそれだけを理解して、アポロはさらに行為に没頭する。
 頭に弱々しく触れるものがある。シルヴィアの指だった。
 頭髪を掻き分けるように差し入れられた両手は力なく添えられているだけで、ただでさえ思考を放棄しかけているアポロにまで意思を届けることができていない。

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