咄嗟の判断とはいえ、さすがにこれ以上何かするのはまずいだろう。
 両目を閉じて視覚情報を遮断してから、まずいと思われる理由を思いつく限り脳内に羅列し、沸き立っていた色々を強引に抑え込む。
 よし、とかろうじて安全弁を閉めた感触を得て、そろりと目を開けてみた。
 眼下には相変わらず涙目のルカがいて、目が合った途端気まずそうに逸らされる。
(……まあ、仕方ないよな)
 ルカの些細な仕草は、自重を決め込んだ直後だけにわりとぐっさり来た。
 だがここで挫けていてもしょうがない。
 再び目を閉じて小さく息を吐き出し――頭の中で何もなかったことにしつつ――、細い手首を押さえ付けていた左手から力を抜こうとして、
「……クロアのえっち……」
 か細い声に目を見開いた。
 そこには、半ばふてくされたような顔のルカが、その肌の赤味を僅かに増量させていた。
 ――大声を出すんじゃなかったのか。
 空気を読まないツッコミが心の中に虚しくこだまする。
 表情仕草声のトーン、そして何より、抵抗の色が一つも見えないしなやかな肢体。その気になれば、嫌がってやめてと叫びじたばた暴れることなど造作もないはずだ。こちらが押さえ込んでいるのは彼女の手首だけなのだから。
 できるのに、あえてそれをしていない。それが意味するところは――
「……」
 もちろん、真意はわからない。
 力では敵わないと知っているから、暴れても無駄だと思っているのかもしれない。
 もしくは、まさか本当にこちらが行動に出るとは思っていないだけかもしれない――いや、自分だって思ってはいなかったのだが。
「……クロア?」
 反応がないのを不審に思ったのか、ルカがこちらを窺うようにそろそろと顔を上げる。
(――っ)
 反射的に眼鏡の位置をずらした。互いの目が合わないように――せめてルカからは、こちらの目の色がわからないように。
 そうして、室内灯を反射させた眼鏡の奥から困惑した風なルカを見下ろしていると、一つの妙案を思い付いた。
 また目を合わせて逸らされたなら、ここまでのことは冗談、……ということにしよう、と。
 さり気なく眼鏡に手をやり、位置を戻す。焦点はすぐに合った。
 真剣に、その瞳を覗き込む。俺は本気だぞ、ということを知らしめるために――それを知って、やっぱりダメー!と拒否してもらうために。
 目を合わせた瞬間、ルカは僅かに怯んだようだった。
 だがそれは本当に一瞬、いや一秒足らずのことで、あっさり持ち直したルカは、恨めしそうな顔のままじっとこちらを見つめ返してきたのだ。
「……」
 その瞳は、彼女の思うところを主張しているようでもあった。
 曰く――クロアが悪いんだからね、と。
(……悪いのはルカの方だろ)
 おかげで冗談にできなくなってしまった。
 もちろん嫌なわけではない。嬉しい誤算といって差し支えない展開ではある。
 だが、全てを自分のせいにされるのは納得いかない。ここまでのことを思い返してみても、悪いのは明らかにルカの方だ。
 だいたいこっちは何度も注意したし見ないようにしたし、いや確かに脱衣を手伝い始めた事に下心が微塵もなかったかと言われたらそれは否定はできないが、調子に乗ってからかってきたりしたのはルカの方だ。
 しかもあれはほぼ無自覚でやってるみたいだしな――そう己が経験則は語る。ルカ、恐ろしい娘……!
 きし、とソファの座面がゆるく沈む。
 何も言わないまま顔を近づけていくと、残り3cmのところでルカが根負けした。
 きゅっと両目が閉じられたと同時、抗議の念を込めて唇を重ね合わせる。もはや段階を踏む気にはなれずに、いきなり歯列を割って舌を侵入させた。
「――、っぅむ、んぅ……!」
 遠慮なしに舌を絡め取り、酸素を奪う。吸い上げたり歯の裏をなぞったり、咥内を蹂躙することで意思表示を行った。悪いのはルカで、自業自得だろ――と。
「っは……ぁ、っ……はぁ、ぁ」
 抗議活動に夢中になっていたのは僅かな間だったように思ったのだが、唇を解放した頃にはルカはだいぶぐったりとしていた。
 とりあえず抗議の意思は余すとこなく伝えたつもりだった。小さな満足感が、妙に昂揚していた思考をクールダウンさせていく。
「っぁ、は……」
 酸素を求めて上下する胸。軽く仰け反り気味な白い喉元。涙が滲んで潤みきった瞳。
 ここまで来て「目のやり場に困る」とは思わなかったが、目に――ひいては理性に――毒であることには変わりがない。
 再び沸き上がる何かにくらりとしたものを感じ、落ち着け、と言い聞かせた。そして考える。少し冷静になった方がいい。どうしたらいいだろうか。
「ルカ、……ベッドにいこう」
 結論:場所移動する間に色々が落ち着くまでの時間稼ぎをしてみよう。
 というわけで、あまり感情を込めないようにして、先ほどと同じ言葉を口にしてみた。
 意味するところが違っているそれに、ルカは元々赤くしていた顔をさらに赤く、耳までを一気に染め上げる。
「嫌か?」
「……さっきはそういう意味じゃないって言ったのに……クロアのうそつき」
 僅かに唇を尖らせてぼそぼそと呟くルカに、拒絶するつもりはないようだった。
 ただきっと、照れ隠しであったりとか、こちらのペースに乗せられているのが悔しいだとか、たぶんそんな些細なことで渋ってみせているのだろう――やはり経験則はしみじみと語る。
 ……まあ何が言いたいかというと、もう考えるだけ無駄じゃないのか、という気分になってしまったのだ。
 そうなのだ。どんなに策を弄しようとも、いつだってルカは、予想の斜め上からとんでもない球(しかも球そのものがルカだったりする)を放ってきては、何もかもを台無しにするのだ。
「……わかった。じゃあここにしよう」
「ふぇっ?」
「俺も嘘つきにはなりたくないしな」
「え、えっちょっ、クロア待っ――」
 体を起こしかけたルカを再びソファに押し付け、反論は却下させてもらった。

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