宿舎の入り口に回ろうとしたユフィをスザクは慌てて引き留めた。
ここは仮にも特派の宿舎であり、セキュリティ等を考慮して監視カメラが仕掛けてある。といっても、追い出された形の特派に回せる警備人員はないということで、ないよりはマシ程度の自衛策というのが本当の所だが。
裏口の方にも設置されているため、誰にも知られず部屋に入ろうとするなら、残るは各部屋の窓からの侵入しかない。
「ふふ、まるで密会みたい」
「みたいじゃなくて、そのものだよ」
窓枠に両手をかけたユフィは、彼が思ったよりも身軽に体を持ち上げてみせた。スザクの手を借り、すとんと床に着地する。
「ここがスザクの部屋……」
帽子と眼鏡を取り、ユフィはゆっくりと体の向きを変えながら、さして広くもない室内を見渡した。
「殺風景で、面白味のない部屋だよ」
「そんなことない。ここでスザクが暮らしているんだもの。こっちは?」
「ああ浴室……って待っ、さっき使ったばかりで濡れてるから!」
「へえ、思ったより広いのね。浴槽もあるし」
「さすがに足は伸ばせないけどね。ああほら、もういいだろう? こっち来て座ってて」
浴室に入り込む勢いだったユフィをどうにか押し戻すと、スザクは浴室への扉をしっかりと閉じた。
見られてマズいものがあるわけではないのだが、使った直後の浴室を覗かれるというのは何となく安心できない。そも、皇女殿下に見せるようなものではないだろう。
念のため鍵をかけながら、扉に向かって小さくため息を吐く。気さくに接してもらえるのは嬉しいのだが、それにしたって限度とか節度とかいうものがあってもいいと思うのだ。
そうして振り返ってみると、ベッドに腰掛けてスプリングの具合を確かめている彼の主がいたりした。
スザクは瞬間的に目眩を覚えたが、理性や使命感等の諸々でそれを振り払って駆けつけた。
「ゆ、ユフィ! 何もそんなところに座らなくても、イスが」
「だって、荷物が置いてあるのを、勝手にどかすわけにはいかないでしょう?」
「どかしてくれていいから!」
勉強机のイスの上には明日の授業の教科書が詰まった鞄があった。床に置いておくべきだったと後悔しても当然遅い。
鞄を片付けたものの、ベッドから動こうとしない主に、スザクは頭を抱えたくなるのをどうにか堪える。
「でもよかった」
「? 何がですか?」
「その、特派は風当たりが強いって聞いていたから……」
何かと不自由しているのではないかと心配していたと、彼女は語る。
多忙の中、そんなことまで心配していたのかと、スザクはどことなく申し訳ない心地になった。
「ベッドもちゃんとしてるし」
言って、ユフィは両手で体重をかけて、ぎし、とベッドのスプリングを軋ませた。
「――だ、大丈夫ですから! はい! 本当に!」
普段は気にもならない僅かな音が今日ばかりは妙に生々しく聞こえて、スザクは慌てて声をあげた。近づいて止めることができなかったので、中途半端に腕を上げたり下げたりしつつ。
そんな直立不動の挙動不審な態度が目に付いたのか、ユフィは自らの左隣をぽんぽんと叩いた。
「スザクもこっちに座ってください」
「ええっ!? ……い、いやあの、もうお戻りになられた方が」
「まだだめ」
きっぱりと即答される。
「私だって何の考えもなく出てきたわけじゃないんです」
ユフィはポケットから折りたたんだ用紙を取り出して、がさがさと広げてみせる。スザクにも見覚えのある図面と表が載っているそれは、周辺警備の配置図だった。
ある地点をユフィの細い指が指し示す。
「えっと……そう、ここ。あと三十分はここの見張りの方がお仕事中で、通れないの」
「……ユフィ。いつの間にこんなものを」
「守ってもらう側が守る側のことを知っておくのも大事でしょう?」
確かにそれは正論であるが、今のスザクからすれば屁理屈にしか聞こえなかった。
「だからスザク、あと三十分は私をここに置いてもらえないかしら」
向けられた笑顔のおかげで、反論することはできずじまいだったが。
押し切られる形で隣に座らされて、確かに自分がイスに座って正面からこの人を見ながら三十分話をするよりは良かったかもしれないというかスカートはもう少し長めの方がいいんじゃないだろうかなどと思いながら、スザクはなるべく彼女の顔だけを注視して会話を続けていた。
本当になんでもないことを、ただつらつらと話して聞いて頷いて笑い合う。それだけでも、あっという間に時間は過ぎていった。
ユフィが軽く俯いた瞬間を狙い、スザクは横目で壁掛け時計を確認する。あと少しで約束の時間が終わる。
この上なく名残惜しくはあったが、彼女は今一番大事な時期にいる、一番大事な人だった。
本当ならこんなところにお忍びなどしていい人ではないのに、まして騎士たるスザク自身が現状を受け入れるなど、職務放棄もいいところだった。
(……でも)
こうしてもっと話をしていたい。普通の友達――恋人同士のように、思うさま言葉を交わしていたい。
けれどそれは叶わぬ願いだ。
彼女は第三皇女。彼はその騎士。
世間は決して、それ以上の関係を許してはくれないのだから。
(そろそろ準備した方がいいな)
セシルは皆が徹夜だと言っていたが、何かの用事で宿舎に帰ってくる研究員がいるかもしれない。ユフィを部屋から出す前に、宿舎の周りに誰かいないかを確認する必要があると、スザクは判断した。
それと一応、彼女を送り届けるルートも確認し直すべきだろう。
(もしものことを考えて、あと二つ……いや三つはルートを用意しておかないと)
万が一彼女の姉にでも知られようものなら、例え彼女が無事であろうとも自分が五体満足無事でいられる気がしなかった。
(……う)
妙な寒気を振り払ってから、スザクは隣に座る主へ声をかけた。
「ユフィ、そろそろ……ユフィ?」
彼の主は俯いたまま返事をしなかった。気分でも悪いのかと、そっと肩に手を置こうとして、
「……スザク」
どこか気落ちしたような声が、彼の名を呼んだ。
主はまだ顔を上げてはくれなかったが、体調に問題があるわけではなさそうだと判断して、宙に浮いた手を引き戻す。
はい、と返事をすると、彼女はだいぶ間を置いてから言葉を続けた。スザクには聞き取りにくい程度の小声で。
「……私って、そんなに魅力ないかしら」
「え?」
はあ、と盛大なため息を漏らすなり、お姉様みたいにもっと胸があれば、とかやっぱりお腹まわりの肉がとか、彼の主は何やら意味不明のことを呟き続ける。
「えーと、あの、ユフィ? よく話が見えないけど、君は魅力的だよ。とても」
「本当に?」
「当たり前じゃないか」
「……」
するとユフィどこか不服そうな顔で、じっ、とスザクの顔を凝視し出した。スザクは言葉を詰まらせつつ、眼力に押されるようにして後退する。
「ゆ、ユフィ?」
「スザクは……私のこと、好き、ですよね」
「え……そ、それはもちろん」
「……じゃあやっぱり私に魅力が……。はっ、まさかスザク、ぁ……えと、あの」
何やらよくわからないが――スザクはとてつもなく嫌な予感がした。
このままうまく意思疎通が図れていない状態を続けるのは得策ではないという直感を信じ、待って、とユフィの言葉を遮る。
「ユフィ。その、何か悩みがあるなら、僕でよければ聞くよ。でもそろそろ三十分経つし、今日はもう」
「あの、スザク」
「うん。なにかな、ユフィ」
「スザクは、どこも悪いところはない?」
「え? 悪いところって……体のこと?」
こくり、とユフィは神妙な顔で頷いた。
何故か嫌な予感を益々否定できなくなりながら、スザクは首を振ってみせる。
「ないよ。この前も簡単な検査があったけど、特に問題なかったってセシルさんも言っていたし」
「本当に、本当ね?」
「どうしたの、ユフィ。心配してくれるのは嬉しいけど、本当に平気だよ。だからそんな顔しないで……って、ユフィ?」
一瞬安堵したような顔を見せたユフィが、はたまた何故だかわからないががっくりと肩を落としてしまったことに、スザクは一人おろおろするしかない。
何度も名前を呼び、おそらくは自分が何か失礼なことをしたのだろうと思い謝罪の言葉を述べる。だがその度にユフィはふるふると首を横に振った。明確な理由は告げず、そうではないと、あなたが悪いのではないのだと、ただそれだけを主張し続ける。
それでも根気良く話を促し続けたスザクに、ユフィは五分後にようやく折れた。
「スザク」
「は、はい」
「何もしてこないのは、私に魅力がないからですか?」
半分泣きそうな、けれど必死に毅然とした表情を保とうとする主の言葉に、スザクは頭の中が真っ白になるのを知覚していた。
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